現地レポート11

2011年6月18日 喪失体験と心のケア

 3ヶ月目を境に「心のケア講習会」があちこちで行われている。
神戸、新潟、長野、又、世界中で起きた災害時のデーターのもとに、これから最大の課題の「愛する人をなくすということ」「喪失体験と悲嘆ケア」「子供の心のケア」等です。
 悲嘆者への対応についての本、パンフレットも数多くあります。「慰めではなく、悲しんでいい、泣いてもいいと、悲しみを全面的に受け止める必要がある。接し方にマニアルはない。必要なのは尊敬と信頼であります。
 特に、私はこの震災や、この場の状況に対して積極的な受け取り方として、なくなっていった方々にも意味があった。そして、残された遺族の方々のいのちにも尊い意味と価値がある事を伝えようとしています。「大丈夫だからね」「元気」と声掛けすることからはじめています。
 「復興のみちなかばで」という本を読んだ。阪神の大震災は16年前の1月17日だった。この記録から希望をつなぐヒントを教えてもらった。

 「―1月17日大震災・5月仮設住宅入居・6月被災地の人々に蓄積する疲労・
7月休養・9月貧富の差・援助も手薄・治安も悪い・10月孤独死アルコール乱用・1月16日 記念日現象―・・・」
 この本から、3月11日東日本大震災の復興のビジョンが見えるようです。

 雨期に入るこの時期、うつ的、疲労、孤独、失業、治安、の問題が山積です。これを乗り越え、8月の新盆を迎えたいと思っています。
 被災地の方々は3月11日より前の状態をもう一度回復したいと願っている。
 日常生活に近づけるキーワードは三つ「なじみの空間(仮設)・つながる時間(コミュニティー)・関わる他者(ポランティア、世話役)でしょう。つまり、震災後の新しい社会の共同性を発展させる必要があると思います。
 避難所生活はもはや限界で7月中には全世帯仮設に入居の予定です。健康面では食事は偏りがち、地域は水産加工場跡から漂う魚の腐敗臭に閉口する。蒸し暑くなり大量発生したハエが室内に入っている。課題は山積みだが、基本は、ふるさとを愛している被災者が元気になるのが優先です。被災者を置き去りにした復興はなりえない!!さらに数カ月は不自由な生活が続きそうです。

             23.6.18(土) 
                      合掌   吉田 律子  

現地レポート12

2011年6月19日 宗教者の被災地支援とは何か

 縁は不思議なものです。6月5日に釜石でイベントがありました。
 食べて! 飲んで! しゃべってみて! みんな元気!! 岩手三陸復興食堂。

 岩手県出身のアーティストの仲間で、地元の釜石の食堂、ボランティアをまき込みの復興応援隊です。私もご縁があり、日用バザーに協力し、その時に法政大学の金子良事先生にお声をかけていただきました。6月19日(日)東京大学会館にて、宗援連(宗教者災害支援連絡会)第三回情報交換会に参加することになりました。
 この会で「岩手県における宗教者の被災地支援 」という題で30分ほど現地レポートと体験を話しました。
 現地の状況と3月11日からの宗教者、僧侶、又、人としての関わりと今後の課題等です。質問がたくさんありました。宗教者はなぜ現地に入りにくいかを聞かれました。世間での日常生活の延長上で、寺、僧侶に対する対応が、生老病死の現場にいるはずなのに、今回は緊急対策からはずされていた。
現代のシステムに寺、僧侶は儀式、供養として関わるが、今回も、不明者、死亡者は自衛隊、役所、消防隊と葬儀業者の方々が犠牲者に対する最前線の役割をにない、火葬の準備が全て整ってから、最後に、寺の僧侶に声がかかるパターンが多いようでした。つまり、どのような社会構造の中に寺、宗教者、僧侶が立っているか。今後、われわれは、何を、どこで、誰に、どのようなことで役割を担って行けるのかが課題です。一人で出来ること、団体組織として出来ることがあると思います。
又、質問の中で、支援金は受けていますかという質問がありました。私は東本願寺の真宗大谷派の末寺の僧侶ですが、申請もしていないこともありますが、本山、教区からの支援金は一切頂いておりません。有縁の寺院様からと「女たちの会」と数人からの支援物資と義援金をもとに、心を形に変えさせていただき活動資金にしています。それらは被災地への調達の物資、炊き出し、ニットカフェ、仮設住宅者への備品代などに使っています。
今回の第三回宗援連で思ったことは、死者への供養儀式は勿論、残された遺族の方々の心のケアと、被災者全員の生きる意味、いのちの尊厳を伝え、寄り添うことが一番大切だと思いました。
寺の住職の方々は、檀家さんの安否や避難場所として提供し頑張ってくれています。


 専門職、医師、保健師、看護師、弁護士、カウンセラー、日赤、等の方々は一週間交代で、全国の県から派遣されていた。民間ボランティアは支援、救援物資、いのちをつなぐパイプ役で奮闘してくれました。
 自分の狭い範囲の事なので、全てがそうだと判断はできませんが、僧侶として各宗派の方々が現地入りし、読経、供養し、傾聴しておりますが、実践している人は少ないと思う。宗派仏青は足湯、炊き出し、お風呂、支援物資の配給、そして、行茶(持参したお茶を被災者とともに飲み御話すること)、茶話会等と、広く活躍している風景を何度か見ました。特に大きな課題となったのは、3ヶ月が過ぎ、精神的な心の支えになれるように、私たちに何が必要とされ、何を求められているか、そして、震災に関わる自分の立脚地がどこか、問われているのかもしれません。
 まず理屈をこねずに、被災者達の生きざまから、生きるいのちから学ぶことが多いのが事実です。
 未曾有の災害を目の当たりにした多くの日本人が「はじめて目が醒めた」「いのちとは何か、当たり前の生活とは、しあわせとはなんだろう」「本当に自分にとって大切なものは何だろう」とあらためて考え、気付いたようです。今までの価値観の大転換です。
 今回のご縁で、震災ボランティアをしている間に、たくさんの方々の生きざま、そして、今この事実を生き抜いている姿に感動と人の縁を強く感じました。

 人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅過ぎずない時に。偶然ではなく必然の道として第三回宗援連に参加することになった事です。

 一人でも多くの方々に、東日本大震災の現状を伝えたい。無関心ではなく我々が共に支え、考え分かち合って行きたいと祈ります。
 東京から盛岡までの列車で、3ヶ月走ってきたことがスクリーンに写るように見えてきた。
「ホメラレモセズ クニモサレズ」の立場で共に生きたい!!


     かなしみは ちからに

     欲(ほ)りは いつくしみに

     いかりは 智慧にみちびかるべし  

               宮澤 賢治 (書簡・大正九年)


                    23.6.19
                      合掌   吉田 律子

現地レポート13

2011年6月19日 海を見たくない

 震災から三ヶ月も過ぎ、いまだ残るガレキの山。失われた命は還ることはない。どんなに泣き叫んでも、どうにもならないことがこの世にあることを知らされた。被災者となっても、この事実を引き受け、生きることが亡くなった人々への供養にもなる。すでに国民は節電命令のもと実行しつつあり、企業も工夫している。
 被災者も復興に向け、今まで以上に生きる意味を見直し、努力している。
この震災の教訓を生かさずしては犠牲者になった方々に申し訳ないと深く思っている。避難所にいる方々の多くが不眠や不安、心の問題をかかえている。枕元には薬袋が積んである。悲しくても自然な反応なのかも知れません。
 生活を再建し、精神的に立ち直る人々、孤立無援のままストレス障害などの精神的困難を抱える人に二極になってしまう。
 私たちは復興の波に乗れずとも被災者であることを見逃さにいることが大切です。多くの被災者の方々には、心の中にトラウマ記憶、恐怖記憶があること。圧倒的な体験によって、その時の五感、感情、認知、思考が停止した状態で保存されたように残ってしまう。何度もよみがえり、フラッシュバックになったりする。喪失による悲嘆も自然な反応ですが、亡くなった人に会いたい気持ちが一挙に押し寄せる時がある。当初は身内が亡くなっても涙一つも出なかったのに、今頃、泣けて、泣けて涙を流す人が多くなりました。一人の人と話したり、聞いたりする時間が長く、堰を切ったように話すことに耳を傾ける日々です。
 炊き出しに行った大槌町の大徳院(寺40名避難)のAさん、50代の女性は、この三ヶ月で10kg以上痩せてしまった。身内を亡くし、避難共同生活して、皆さんに親切されているが体調が思わしくない。この窓から見える景色は、海と堤防とガレキの山、壊滅した故郷がと、生活の場が見える高台だった。
 あの時のトラウマが昼も夜も襲い掛かってきて、不眠と不安と恐怖でどんどん痩せていく。「海を見たくない」と言っています。
 このAさんの話や悩みを聴くポイントは共感して聴く。「今日はどうですか」「何か楽しいことみつけた」等あいづちだけ・・・心で抱きしめるだけ・・。
 希望と安心、安全を大切に、私たち一人一人が被災者と「今ここ」を共に生きお互いを見守り、寄り添い、気遣い会い、一歩進みましょう。

                      23.6.19
                       合掌   吉田 律子

現地レポート14

2011年6月20日 ガレキのつぶやき

津波と火災で壊滅的被害を受けた大槌町中心部、海岸線は痛々しい姿のまま、ガレキや痛んだ海具、漁船が山のように積み重なっている。
 つぶやきが聞こえる・・・
   「まだふっきれない」とうつむく人。「つらいのはみんな一緒」と前を向く人。それぞれ複雑な思いを胸に、明日への一歩を踏み出している。
 「また、ひょっこりかえって来るような気がする」
 「数分前まで言葉を交わしていた。仕事を定年退職し、夫婦でゆっくり、
                これからという時だったのに」
 「何か割り切れない、不明者を犠牲者として扱われるのは複雑だ」
 「一人で海を見つめている毎日だ、浜に降りて来ては好きなタバコをふかすのが日課だ」
  「毎日、土の中の家屋から、思い出として残すため、探し物の毎日だ」
  「一人できままにやってきたから、避難所は気を遣い、疲れる」    
   「身内を亡くし、私が生きていてよかったのか、悪かったのか・・・」   
「将来の不安、何十年もここに住んでいた。息子の嫁とうまくいくか・・」
「故郷を去らなければならない、感謝で一杯、
思い出しては涙、本当はここにいたい」  
 「泥をかぶったタンスから礼服を水洗いし、法要に行ってきた」
 「みんな元気にしているから安心して、おとうさんのいるところへ行きたい」
 「仕事をしない三ヶ月間のほうがよっぽどつらかった」
 「諦めることなく大きな希望を持って、美しい町を復活させたい」
 「早く海の仕事をしたい。船に乗りたい」
 「津波、地震のことはだれも恨んでいない。人は残酷に裏切る」
人に出会った数だけのつぶやきを聞いてきた。
福島の南相馬市の詩人 和合亮一氏の「詩の礫」から

   放射能が降っています 静かな夜です
   ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか
   お前はこの震災で何を見た
   行き着くところは涙しかない そして明けない夜はない

 祈るということは誰にでもできる支援のひとつのかたちです。盛岡仏教会は6月18日に法要を行った。内陸に避難している被災者の方々も、一人一人焼香し、目頭を押さえていた。  
 23.6.20  合掌  吉田 律子

現地レポート15

2011年6月21日 メッセージボード「がんばるゾウ」

 釜石の鵜住居地区の家屋の多くは津波に流されました。
まわり一面がガレキで覆われ今でも、そのままです。遠くに見える山の手の寺は、柱と屋根が残り空洞になり、その周りは墓石が積み木のように散らばっている。
 炊き出し隊で行った保育士の小林さんの菩提寺だったのです。小さいころによく遊んだ所で思い出がたくさんあり、愛する兄が眠っている墓だと顔を伏せ、その手のすきまから涙がポトポト落ちた。地元に恩返しとの思いで、炊き出しに参加したが、故郷として思い出を持っている彼女は、このガレキに悲しみの深さを味わったようでした。
 現地で感じることは言葉にできないが、必ず何かのメッセージを受け取っている。釜石に小佐野小学校があります。この学校に鵜住居小学校が全部流されたので、仮校舎として鵜住居小の5・6年生がいます。1~4年は少しはなれた双葉小学校にわかれ勉強しています。この様に複雑に、何校も一緒に学校生活をしているのが被災地の実情です。幼稚園、保育園、中、高校も同じ・・・」
 鵜住居小学校に6月21日メッセージボード“がんばるゾウ”4枚届けました。二枚は盛岡の仁王児童センター、二枚は京都の畑絵教室からです。
 5・6年の小学生は体育館に集まって下さり、元気な笑顔で受け取ってくれました。
 ぞうの三つのポイント①目がやさしい②巨体は大きな夢と希望、そして大地をしっかり歩む③家族の愛と絆が強い。―今こそ人として支え、分け合い、希望に向かい前に進み、家族、友人と一緒に乗り越えよう―がメッセージのねらい。
 「まけないゾウ!! 大丈夫だゾウ!! くじけないゾウ!! いきてるゾウ!! たすけあうゾウ!! 大きくなるゾウ!! あきらめないゾウ!! あいしてるゾウ!! がんばるゾウ!!」
 と体育館が割れんばかりのエールでした。
子供たちの希望に満ちた姿に目頭を熱くし「大丈夫!! 大丈夫!!」と、心で叫び、帰ってきました。
 鵜住居出身の釜石保健師の白岩さんとは5日に在宅支援の地で知り合いました。家を流され、夫婦子供二人で借家住い。この状態で共稼ぎは大変です。
 すべて流されたので、仕事が出来ることには感謝しつつも家族の事が出来ないと悩んでいた。
 子供たちの支援を引き受け、衣類、文具、食品を届けている。これをきっかけに子供会ができ、五家族子供十人の支援が始まった。母親同志の交流、情報交換、グループで子育てをし、乗り越えよう。これも被災地での生きた知恵のひとつです。
 只超子ども会と二つ支援が始まりました。子どもは未来の光!!

              23.6.21 合掌  吉田 律子

現地レポート16

2011年6月21日 泣いてください

スイッチをいれると灯がつくという常識がもろくも崩れ、電気のありがたさを大津波が教えてくれました。猛暑の夏なのに“節電”の連呼に協力しなければならないが、さて、この暑さとの我慢くらべに耐えられるのでしょうか?
盛岡から被災地まで約2時間30分の道のりは見慣れてきているが、なにより自然の移り変わりを感じる。あの吹雪の日、満開の桜、いのちの新緑が楽しませてくれました。
「かりそめに死者二万人などというなかれ、親あり子ありはらからあるを」
                 震災歌集   長谷川 櫂
  未曾有の天災と原発事故、あまりにも深い悲しみと、大きな憤りを伝えていると思いました。この震災を二万人以上が死亡、行方不明となった一つの災害と捉えるのではなく、一人が死亡行方不明になった出来事が同時に二万人以上起こったと捉えるべきです。身を引き裂かれる思いのご遺族、不明者のご家族は、死を実感できず、二重の、喪失感と無力感を味わっておられます。
だからこそ、今、弔いの作業の大切さを伝えるため「十分に悲しんでください」
「泣いてください」と寄り添っています。
 あれこれ考えているうちに釜石の小佐野仮設住宅についた。
訪問依頼があり初対面だったが、こころよく迎えて下さった。60代あや子さん、息子の大輔さん、畳職人のご主人と3人暮らしである。仮設住宅には県内で一番早くできた4/30からの入居とのこと。お茶を頂き、仮設の中を見渡すと
家財道具が一杯あった。自宅は1F浸水したが2Fのものは残った。それを持ち込んでいる。話は3.11の日の事、失業の事、将来の事、健康の事あれこれだったが、息子さんの事だった。釜石製鉄所勤務だった彼は、あの津波の恐怖で思考停止になり、その後、無表情、無気力になり、しばらくして「今の生活を楽しんでいる」「このままでいいのだ」と否定とも肯定とも取れることを言い始めているとのことだった。この変化にお母さんは心配しての事だった。答えも薬も出せないが、話を聞くことが次につながると信じ帰路についた。
 一人暮らしの佐々木さんは、娘は盛岡にいるが迷惑かけたくないのでと、一人暮らしを選んだ。すこし甘えていいと思うが、難しいことである。
 体験から学ぶ意味は、人の数ほどあると思った。
                  23.6.21
                    合掌    吉田 律子

現地レポート17

2011年6月22日 生きるほうが悲しく辛い

 女性の能力を活用していくことが、より一層の活力を、これからの日本社会にもたらすでしょう。この震災での女性相談窓口の設置は後手に回りがちだった。避難所では女性のプライバシーが確保されていなかった。
 着替え、授乳の場所がなく、要望が行きわたらず苦労した。また、下着、衛生用品、化粧品は不足であった。風呂に入れないので清浄綿で拭き、しのいだ1ヵ月は大変だったという。おしゃれができる日常に戻したい。心の鏡だけは曇らせないでほしい。
 被災者の心のケアや子育て環境の改善などにも、女性の果す役割は大きい。
きめ細かな女性の目を積極的に活かしていきたい。ある人は「私は女を捨てたの、風呂にも入らず、着の身着のまま、紙をとかす、鏡を見ることもすべてできない」「生き地獄だ、生きるほうが悲しくつらい」と。避難所の喫煙コーナにはたくさんの女性の姿が見える。
ここに来てから辛すぎてタバコを吸ったという。強度のストレスがもたらしたものか。大所帯(200~300人)では支援物資は平等に、公平にするために数がそろわなければ配給しない。体調不良や熱を出している等の諸事情があるのに、画一的物資配給のため、逆に個人のニーズは通用しなくなり、困惑している人もいる。
240人の避難所で、3月11日後に配給されたジャージズボン着を3カ月間はいている。物資の事でイヤガラセをされたり、イジメを受けたりと、悲しい現実もうまれてきています。
義援金は6月末からの支給なので、手持金が5千円の人、10円の人、0円の人と我慢の日が続きました。
この被災地は漁業の町であり、男は船で海へ、女は浜で作業する。あの姿を早く見たい。女性の労働力を抜きにして浜の仕事は成り立ちません。浜で働いてきたお母さんたちの手はゴツゴツ固く、これからも現役で生き生きと暮らして欲しい。じっとしていれなくて、網のネットを使い、手作りミサンガを作ったり、タオルでゾウさんを作ったりと、休むことがない。また、仮設に入り、毎日、配達弁当だったのを、家族の大好きな、おふくろの味を食べてもらうため、エプロン姿で料理をしたいとワクワクしている。
                  23.6.22
                     合掌   吉田 律子

現地レポート18

2011年6月23日 オレは船乗りになる

大震災の爪痕が深く残る6月23日6:51分に緊張が走った。盛岡は震度5弱でドーンという揺れに飛び上がった。沿岸地域では一時、津波注意報が発令され、住民の多くは、教訓を生かして高台へと急いだ。
 悪夢から100日以上たち、油断禁物を改めて警告した。大きな揺れがいつまで続くのかと、疲れた表情で沖を見つめていた。
 子供は復興未来の宝だ。最近子ども達への勇気お届けが目立つ。英会話教室、夢の課外授業、保育所での打楽器会、歌の応援、コンサート、スポーツ試合、読み聞かせ、お絵描、花づくり,サクランボ狩り、と沢山の支援が行われています。
 学校生活に入り、勉強にスポーツ、そして友達との遊びと、十分楽しんでいる。原体験がトラウマとして残っているからこそ心のケアとしては大切事かもしれません。そして、学校給食への炊き出しが無いぶんとして「心の栄養授業」が催されているのかも知れません。心配なのは、親に心配かけまいと、わざと元気にして笑顔を作っている子たちである。
小学校の先生が気にしていることは「仮設に入り、家族だけの生活に入ると、子供のひきこもり、暴力、登校拒否が始まる」です。
4月28日に大槌の安度小学校にメッセージボード2枚を届けたことへのお礼状が届きました。全校生徒の写真入りで、皆元気そうで安心しました。
吉里吉里小学校に4っの学級が合同で使い、校長先生が四人いるという状態です。
通学はスクールバスです。毎日目にするガレキの景色を見て生活する青少年にとって、心は深く傷つき、明日への希望を削ぐようで悲しくなります。
3年生の男の子は「オレは船乗りになる、お父さんと一緒だ!!」と。
なんとも照れた笑顔に、白い歯は胸を熱くする。
                 23.6.23
                   合掌   吉田 律子

現地レポート19

2011年6月22日 おちゃわんで白いご飯食べたい

 ひとけのない荒涼とした風景が広がり、ガレキを撤去する重機の音だけが響く。土埃が舞う中、トラックの往来の数で復興が進んでいる印象をうける。震災直後、ガレキの海となって道路の位置すらわからないほどの惨状と余震の中で行方不明の捜索は困難を極めた。
3ヶ月が過ぎ、母親は生きていると信じ、避難所の会長を引き受けている佐藤さん(42才)が頭をかかえてうずくまっていた。「どうしたの?」「オフクロが上がった!!」「オフクロが・・・」母一人と子一人の家族だった。落胆が多きい。
天災だ、だからみんなと一緒に助かり、生きていこうと、避難所をまとめていた。「頭、真っ白だ、認めないぞ」「全部辞める、なにも出さない」背中を擦るしかなかった。彼に再び悲嘆の日々が始まった。
話を聞いてほしいと80代の女性、佐々木さん。小学5年の時、1960年のチリ地震津波に遭い、畦道を走って逃げた。今日は何故か位牌だけ持って高台に逃げ難を逃れた。逃げる途中高台の寺にたどり着いた。しかし避難者達は一安心と胸を撫で下ろし助かったと語っていた。あまりにも人数が多いため、ひとまず高台へとまた登った。振り返ると、大きな波が寺をまるごと呑み込み、全員流された。そして、決して泣かなかった。
しかし、今は思い出しただけで、あの情景が浮かび、涙が止まらない。流された父は、日蓮宗の寺の役僧をし、生活の中で大事なことをいつも私に教えてくれていた。父の教えを守って助けられた。
だから位牌を持って逃げた。と合掌しながら話す。この町で生まれ育った人間だから、ほかに行くところもない。町はみんなで作るもの。ある意味、人間の知恵が自然に試されているともいえましょう。正念場はこれからだ!!
今、小学校に避難所生活をしているが、園児に「おちゃわんで、白いご飯がたべたいネ」と言われ涙が止まらなかったと、おばあちゃん。
おにぎり、パン、お弁当の続く毎日から解放され、一日でも早く日常に生活に戻せるように祈ります。
                23.6.22
                  合掌   吉田 律子

現地レポート20

2011年6月25日 震災ニモ負ケズ・・

雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ 震災ニモ負ケズ・・・
花いっぱい運動が仮設で、道路で、公園で行われている。震災のシンボルの花は「ひまわり」となり、全国から種をもらって育てている。
大輪の花を咲かせるため、住民もボランティアも汗をかいている。炊き出しといえば、被災者にボランティアが提供するのがほとんどですが、大槌高校では体育館を避難所に使っているお礼と感謝を含め、被災者が高校の生徒、学校の関係者にスイーツの炊き出しをしました。
又、仮設の談話室を使い、住人数名で炊き出しを仮設の交流会も始まっている。「・・をしてもらう」から自分たちで出来ることはする、一歩自立の道と思っています。 
盛岡炊き出し隊は、車2台8人で出発。大槌の大徳院(寺、50人)で2回目の挑戦で今日のメニューは「ちらし寿し、みそ汁、お香」です。
6:30分盛岡出発9:30到着。9:30~12:00炊き出し。12:30昼食会。台所の鍋、釜、調理道具を使い知っていたため、今度は作業がしやすく、スムーズに進んだ。
薄焼き卵50ケを、汗をかきながら焼く人、具を煮込む人、盛る人、何とも和やかな雰囲気です。昼食会は新聞紙のテーブルに配膳し、お父さん達は、庭先でたき火をし、手作りテーブルで潮風に吹かれてのご馳走で「うまい、うまい」の連発!!2回目でもあり、前より親しさがまし、会話もはずんだ。うまい、の一言をきけて、思わず疲れが飛んだ。これが対等な関係の、おかげさまの世界です。
ハエが異常発生しているので大変。目の前にはガレキと海が見えるが、寺の脇には仮設の工事が急ピッチで建設中です。
潮焼けしたおばあちゃん(80才)がそれはおいしそうにタバコを吸って「今回は痛い思いしたけど、海があって生活してきたから海には感謝している。もう少し生きてみよう、息子が嫁もらうまで」とつぶやいた。
海も、山の樹々もあまりにも美しい。
寺へのお土産に、盛岡の阿波さん(自家製のおいしいうめぼしと調味料)とくまい文具(カレンダー・日記帳50冊)の物資を届けた。
炊き出し隊は、天沼さん・小林さん・佐藤さん・真淵さん・山本さん・藤原さん・佐藤(男性)さん吉田でした。
ご苦労さまでした。次回は7月17日(日)予定
                  23.6.25 吉田 律子